ステージ4のがんを、母は4歳の娘にどう伝えたか?
病いと子供と私
いま、AYA世代のがんが注目を集めている。AYA世代とは思春期・若年世代(Adolescent and Young Adult=AYA)のことだ。15歳から30代のAYA世代ががんを発症すると、治療の予後不良が多いことや、就学、就労そして育児などの日常生活に大きな支障を与えることから、AYA世代のがん患者に対するケアの必要性も訴えられている。
子育て世代の病気について当連載で語ってくれる人たちは、まさにそのAYA世代。がんという重い病気であっても、日常を切り離すことができない。今回は、娘が4歳の時にがんを発症し、自分の生き方を見つめ直したという田中聡子さん(50歳)に、二回にわたり話を聞いた。
大腸がんからの肝臓転移、突然のステージ4告知
田中聡子さんが、初めてがんの告知を受けたのは10年前。当時務めていた会社の健康診断で大腸がん検診が要再検査となった。クリニックで内視鏡検査をすると、悪性腫瘍だとの診断。大きな病院でさらに精密検査を受けることになった。
「実はその2年前に大腸にポリープができていたんです。4つのうち1つが わずかにがん化していました。でも、そのときはすぐに内視鏡で切除しておしまい。医師からは、ポリープがまたできても、すぐには大きくならないし、2年後にまた検診で調べれば大丈夫と言われました」
ところが2年後の検診で再びの再検査になった田中さん。検査結果は家族を連れてきてくださいといわれ、イヤな予感がしたと言う。
「最初は、2年間なにもなかったし、ポリープがあるならまたとればいいと軽く考えていたんですね。でも、結果は違いました」
大腸がんを発症していた。しかもステージ4で肝臓にも転移しているという。このとき初めて、田中さんは目の前が真っ暗になった、という。
「そこまで悪いとは思っていなくて。まさかステージ4はないだろうと思っていたものの、5年生存率も調べていたので、『あ、もうすぐ死ぬんだ』と、気分が悪くなったことを覚えています」
その後、少し気持ちを持ち直した田中さんは、冷静になって今後のことを考えてみたという。近い将来の死を覚悟したようなつもりでも、どうしてもひとつだけ心残りなのは、4歳の娘さんのことだった。
「自分が死ぬことについては実は、それほど大きな未練を感じなかったんです。当時39歳でしたが、楽しく生きてきて、結婚も出産もできたし幸せだったなって思って。夫も今ならきっと再婚できるだろう、と。なんとか自分を納得させようと思っていたんでしょうね。
でも、唯一娘のことだけは、納得できなかった。4歳という幼さで母親を亡くすことは、どんなに大きな喪失だろうと。たとえ周りの人が大切に育ててくれたとしても、その穴は埋められず、悲しい思いや寂しい思いをするだろうと思うと、耐えられなくて。ぜいたくは言わないから、せめて娘が、自分で服を選べて、髪の毛をかわいく結べて、それくらいのことでいいから自分でできるようになるくらいまでは、私がそばにいてあげたいなと思ったんです」
抗がん剤の副作用に苦しむ母を見て娘は
大腸がんは手術で切除することになったが、肝臓に転移したがんは位置が悪く、手術はできないと言われた。大腸の手術後は、抗がん剤治療を受けるしかなかった。1週間の入院後は自宅から病院に通い、2週間おきに抗がん剤治療をする。
田中さんは嘔吐中枢が敏感で、車酔いやつわりでもひどい嘔吐に苦しんだ経験がある。抗がん剤を入れたあと1週間は、必ず強い吐き気と嘔吐に悩まされた。家でもぐったりとして寝込む姿を見て、娘さんは不安になった。
「娘には、最初の手術入院前に『おなかに悪いものができたから、ちょっと切ってくるね』とだけ伝えました。『わかったー!』と元気に答えたものの、4歳ですから、当然わかってはおらず(笑)、入院初日は大泣き。その後、抗がん剤治療が始まると、1週間は死にそうなほど苦しんで、あとの1週間はけろっと元気になるママがいる。でもまた起き上がれないほど苦しむ。その繰り返しで娘が混乱し始めたんです」
保育園での午睡中に泣いて起きたり、頻尿になったりという体への不調が出始めた。4歳児にも分かるようにちゃんと状況を説明しなくてはいけない。どこまで理解できるかわからないが、怖がらせないよう、自分の言葉で伝えようと田中さんは心に決める。
「『ママはがんっていう病気なんだよ。治りにくい病気なの。手術をしたけどまだ残っていて、それは切れないからお薬で治すの。きつい薬だから、ママも弱っちゃう。しんどくなるのは薬のせいなの。でも薬が抜けたら元気になる。やっつけるために、ママが死なないためのお薬だからしんどいけど大丈夫だよ』。そう伝えました。娘はまた『わかったー!』って元気に言ってくれて、本当にわかったのかなって(笑)。でも自分のけじめとして伝えられてよかったですね」
以来、「ママががんだ」ということは家庭内の当然の事実になった。
よその人から「ママ、病気でかわいそうね」と声をかけられても、娘さんは「ママはかわいそうじゃないよ。お薬でやっつけているんだよ」と答えるようになったという。
「5年の壁」を超えて
半年以上にわたり12回の抗がん剤治療を経て、肝臓がんはCT上で見えなくなった。だが、喜びもつかの間、3カ月後に再発。さらに肺への転移が明らかになった。
「娘のために、まだ生きたい」
そう考えた田中さんは、再び2種類めの抗がん剤治療をスタートする。
「抗がん剤の副作用は個人差が大きくて、ほとんど平気だという人もいるんです。でも私は本当に辛かった。肝臓の腫瘍は切れないといわれたけれど、これ以上抗がん剤治療を受けるのが堪え難くて、手術ができないか再度医師に相談してみたんです。すると快くセカンドオピニオンが聞けるルートを調べてくださったんです」
肝臓手術が得意な医師がいる病院を主治医が紹介してくれたおかげで、幸運なことに手術の可能性が拓けた田中さん。抗がん剤治療で肺の腫瘍を小さくしてから摘出手術を済ませ、続いて紹介先の病院に転院して肝臓の手術を受けた。1カ月間に二度の大手術をすることになったが、田中さんは耐えた。
「肝臓はやはり場所が悪く3分の2を失い、胆嚢も切除しました。綱渡りで大変でしたが、ラッキーでした。また生きる道ができたんですから」
この時点で、治療をストップして様子をみることもできた。だが、抗がん剤が苦しくて踏み切った手術だったが、成功した以上はこの先も長く生きられるようにがんばりたいと、田中さんは以後4年間、再び抗がん剤治療を受け続けることにする。
「ステージ4ということは、すでにがん細胞が血液に残っている状態。やはり『5年生存率』は低く、どこまで生きられるかというところでした。どうなるかわからないけれど、目安として5年間は再発しないよう治療を続けようと決めました」
苦しみに耐えながら、田中さんは治療を続けた。4年を過ぎた頃、主治医からももう継続しなくても大丈夫でしょうと言われ、すべての治療をストップ。その後は定期的な検診を受けながら、発症から10年たったいまも元気に過ごしている。田中さんは言う。
「私はたまたまラッキーだった。がんって厳しい病気です。どんなに努力しても治療をがんばっても、亡くなる人をたくさん見てきました。わたしと同じように子供のために生きたいとどんなに願っても叶わない人もいます。だから、私の選択がよかったということでなく、たまたま私は生かしてもらっている、ということなんですよね」
だがひとつ言えることは、この10年、田中さんは一度も希望を捨ててはいなかった。そしてそれまでにはなかった新しい人生の”楽しみ”を見つけたと言う。後半では田中さんが、仲間と行った新しいチャレンジについて聞いていきたい。
<後編は17日・17時に配信予定です>
フリーライター。東京外国語大学卒業。翻訳書籍編集、育児雑誌編集等を経て、フリーに。現在は、家族、教育、仕事、障害、命などをテーマに、雑誌・ウェブマガジンに寄稿する。家族のコミュニケーションを探る「家族会議」を研究中。